松坂大輔を超える天才投手が横浜高校にいたことをご存知ですか?
2018年、中日ドラゴンズで見事な復活を遂げ、来期からは背番号”18”をつける松坂選手。
この松坂選手を超える投手が横浜高校にいて、そして志半ばで亡くなったという事実。
その投手の名前は丹波慎也といいます。
そして、丹波さんが亡くなった後に起きた奇跡は涙なしに見ることができません。
丹波さんが何故急性心不全で亡くなってしまったのか?
そして突然亡くなった後に起きた奇跡の数々をまとめてみました。
目次
丹波慎也の死因は急性心不全
文武両道でチームの模範で絶対的なエースだった丹波さんは、
1995年の夏、心臓肥大による急性心不全で急死しました。
その前日に撮られた写真がこちら↓
普通に試合に出ていたんですね。
本当に急死だったことがわかります。
そしてこの試合後、自宅で父親とトレーニングや、
フォームチェックをしていたということですから、
全くその前兆すらありませんでした。
ところが朝気づいたこと時にはすでに亡くなっていたんです。
まだ温もりがあり”何とかなるだろ”と当時の横浜高校の監督であった渡辺さんは懐古しています。
渡辺監督はこの丹波さんから横浜高校の黄金時代が始まったと語っています。
丹波さんにはどれほどの影響力があったのかは、
その後の奇跡の数々をみていくと納得いきます。
丹波慎也投手の急死後に起きた奇跡が泣ける!まとめ
まったくその予兆がなく亡くなってしまいましたから、
野球部や家族を始めとした周囲の落胆は相当なものでした。
丹波選手がなくなってその1週間後には春の甲子園の予選が控えていました。
渡辺監督はチームが試合に臨める状態ではないため、一度は出場辞退も検討したとのことです。
出場を決断するきっかけをくれたのが丹波選手の母である裕子さんでした。
”何としても慎也のために試合をやってくれ”と渡辺監督に訴えました。
この強い言葉をきっかけに横浜高校はやる気になり結束していきました。
丹波選手の強い思いがお母さんを通じて伝えられたのでしょう。
そしてここから野球部や家族であるお兄さんに奇跡が起こっていきます。
奇跡の逆転
団結して臨んだ関東大会で一つ目の奇跡が起こります。
関東大会は翌年の春の甲子園への出場権がかかっている大会です。
奇跡が起きたのは宇都宮南高校戦。
9回2アウト、ランナー無しの状況から逆転サヨナラ勝ちを収めたんです。
8回の2点はホームランによる2点なんですが、
突風にのったホームランだったんです。
”丹波選手の魂を甲子園に連れて行く!”
この強い意志から生まれた勝利といっていいかもしれません。
春の甲子園出場
一度は断念した関東大会を勝ち抜き見事春の甲子園、センバツ高校野球の出場を勝ち取りました。
ピッチャーは、本来野手である松井光介さんがつとめました。
そして松井さん更に高みに登っていきます。
なんと投手としてドラフトで選択されることになりました。
松井光介が投手としてドラフトに
丹波選手が生きていれば、投手としてドラフトにかけられることはありませんでした。
その意志を受け継いだ松井さんがなんと投手としてドラフト指名を受けたんですね。
その他、丹波慎也さんの兄である丹波幹雄さんも奇跡の体現者の一人です。
幹雄さんについてはもう一つの記事にまとめてみました。
丹波慎也が兄にかけた言葉が泣ける!幹雄のヤクルトでの成績は?
高校2年で横浜高校野球部を退部して、
一線を退いてブランクがあったにもかかわらずプロ入りを果たしたすごい選手です。
上地雄輔のブログで丹波慎也のすごさがわかる
客観的にどれほど丹波さんがすごかったのかは、
上地雄輔さんのブログを見れば一発でわかります。
また丹羽さんを特集した動画を紹介します。
いずれも涙なしには見れません。
ハンカチ必須です。
あとこのブログを読んだら上地さんのことが好きになってしまうと思います。
以前、クイズ、ヘキサゴンという番組でおバカキャラで人気を得た上地さんですが、
一時の人気に終わらず今や俳優としても活躍されていますね。
丹波さんとの出会いがその後の上地さんの未来を運命づけたように思えてなりません。
まとめ
丹波慎也投手の死因は急性心不全。
前日まで元気だったが突然亡くなってしまった。
横浜高校には丹波慎也さんを忍んだプレートがあります。
どれほど優れた人物だったのかが窺えます。
その後に関係者に起きた奇跡の数々。
関係者でプロ入りを果たしたのは、
ピッチャーを引き継いだ松井光介さん。
そして兄である丹波幹雄さんです。
いずれもヤクルトスワローズから指名を受けました。
確実に二人とも丹波さんがなくなっていなければ、
プロ入りを果たすことはできなかったでしょう。
それほどとてつもない影響力があった丹波慎也さんでした。